ただこの作品はここで終わりません。主人公熊吾への「なんでなん」は、一番守るべき妻房江さんを追い詰めます。わしがついていてやらなかったらと愛人博美さんの世話をする熊吾。ひょんなことから房江さんは知ってしまいます。そして「伸仁には言わんでくれ」と頼まれたけど、ぶちまけてしまった。
本当は房江さんや息子伸仁の元に帰りたいと思うけど、すれ違ってしまった状況はなかなかすっとは元に戻らない。他人のことならうまく捌けても、自分のこととなるとからっきしダメ。
そんな大晦日のこと、愛人博美さんと分かれることを決め、自宅に帰って来るも房江さんに邪険にされ、力任せに頬を平手で殴ってしまう。
「わしはもうほんまに戻ってこんぞ。それでええんじゃな」
「私は、戻って来てくれって頼んだ?」 房江さんは言ってしまう。
「お母ちゃんはお父ちゃんに戻って来てほしいに決まってるやろ? お母ちゃんがちょっとくらい意地を張ったかて、そのくらいのことは大目に見てやれへんのん? 悪いのはお父ちゃんやろ? 十回くらい謝ったらええがな」と伸仁
「てんごのかわ言いまんな!」 と手に持った棒を伸仁の肩に振り下ろした。
負い目のある父、熊吾が悲しい。
大晦日の夜、博美さんのアパートしか行く当てはなかった。
その後房江さんはついに自殺へと追い詰められ、娘のようにかわいがっている麻衣子さんの住む城崎に向かい、その駅前で大好な特上の鰻重をお腹いっぱい食べた。この好物の鰻が、房江さんが自殺のため用意した睡眠薬、プロバリンから救うこととなった。自殺未遂後の病院に駆け付けた熊吾 「助かったのお。生きてくれたか」と声をかけた。しみじみ・・いい言葉や。なぜここで元に戻れなかったのか。この時も、その後も、二人はいつもお互いを自分の帰るべきところと分っていた。
ただ、戻ってもまた同じことの繰り返しかもしれない。房江さんは、夫をあてにせず生きなおすことを決めた。モータープール管理人の仕事をしながら、昼間はホテルの社員食堂で働くことを決めた。53歳での覚悟でした。
そんなある日、熊吾はふと妻房江さんの勤め始めたホテルを見てみようという気になって歩き始めた。もうすぐ退社時間のはず。おそらくこの道を帰るはず。
喫茶店の窓際に座り、飲みたくもないコーヒーを注文し煙草に火をつけ、妻が通るであろう地点を見つめつづけた。
やがて現れた妻の横側はこれまでの妻とはまったく違う女だった。
何がどう異なっているのかを熊吾は言葉で表現できなかったが、房江には、内に隠しつづけていた利かん気で意志的な、柳に雪折れなしという強さとたおやかさが溢れていた。
こんなに顔色のいい房江を見るのは初めてだと思うと、熊吾は気圧された心持でさらに観葉植物に隠れるように椅子を下げた。
今日もホテルの従業員食堂で六十人分の社員たちの昼食と夕食を作ってきたのだな。そして、これからシンエー・モータープールに帰るとすぐに銭湯で汗を流し、伸仁の晩御飯の用意をするのだ。
あのとき死んでしまっていたら、お前はお前の本当の自分を誰にも見せないまま生を終えてしまっていたのだ。お前はなぜ死ななかったのだ。なぜ生きていられたのだ。
俺はもうお前に迷惑はかけない。本当の松坂房江という女を殺していたのはこの俺だ…。
やって来た満員の市電に乗った房江が去って行ってしまってからも、熊吾は喫茶店の観葉植物に身を隠しつづけた。
ここで、第八部 「長流の畔」 は終わります。
熊吾67歳。 私たちと同じ年です。人生の盛りの頃は、過ぎようとしていました。
そして、房江さんは熊吾への思いを抱いたままの、新しい生活の出発でした。
宮本輝さんが30年以上の年月をついやされた作品がもうすぐ終わろうとしています。お父さまが亡くなられたのが70歳だったと、宮本輝さんは随筆「血の騒ぎを聴け」で書かれています。
「おてんとうさまばかり追いかけるなよ」
70年生きてきて、ようやく判ったのだと父はつづけた。父は2か月後に死んだ。
人にだまされ、無一文になって死んだ・・とも
宮本輝さんも今年70歳になられたはずです。シリーズ完結編をどんなふうに結ばれるのか、楽しみにしています。
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